148センチの日常

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【心と感情と気持ちはおなじものではない】感情と気持ちが混ざりあって生まれた心が、自分を含めたひとを動かす

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【心と感情と気持ちは、おなじものではない】

 

後宮の烏5 」という小説の中に、

こんな文章がありました。

 

「(略)ひとを動かすのは

 結局のところ、心よ」

 

(中略) 

 

「陛下のはかりごとには、

 心がある。

 そうした帝に仕える者は、

 幸いであろうな」

 

(「後宮の烏5/白川紺子」より引用) 

 

 

 

「心」と「感情」と「気持ち」は

しばしばおなじものとして

扱われがちですが、

 

このセリフを読んでいると

「心」と「感情」と「気持ち」は

切り離すことはできないけれど、

おなじものではないんだなと

おもえます。

 


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【心は感情と気持ちを練り上げて意志を作り上げるところ】

 

よろこび。

かなしみ。

いかり。

たのしみ。

 

それを感じるのは

からだの部分でいえば

たしかに「心」でしょう。

 

けれど、

「心」の中には感情とともに

気持ちがあります。

 

「つらい」「しんどい」「きつい」

 

そういう感情に

「じゃあ自分はどうしたい?」

という気持ちをブレンドして

 

「自分はこうありたい」

 

という“意志”を作り上げる場所が、

「心」なのだとおもいます。

 

【うつの時の、心という場所のありようとは】

 

「心」という場所だけあっても

「感情」だけあっても

「気持ち」だけあっても

自分という人間は動けません。

 

うつの間は

しんどい、つらいという感情だけで

「心」という場所の99%が

しめられている状態です。

 

たのしみもよろこびも

そこには、ほぼ皆無。

 

つらい、しんどいという感情は

あるけれども、

 

意志のもとになる「気持ち」は

「消えたい」しか置かれておらず、

 

「心」のなか

しんどい、つらいという感情

消えたいという気持ち

100%占められています。

 

本当はもっと

多くの感情があるはずなのに、

感じられるはずなのに、

 

自分がこうありたいという

気持ちの種も

たくさんあるはずなのに、

 

荒廃した砂漠のように

「心」には乾ききった砂が

広がるばかりです。

 

【心という場所があっても感情のセンサー、気持ちの種がなければ心はなめらかさを失う】

 

本当は誰もが「心」という場所を

自分のなかにもっています。

 

けれどいろんな事情で

「感情」のセンサーが壊れたり

「気持ち」の種が

まかれていなかったりすることで、

 

うまく自分の行動が

選びとれないことが

人生のなかではあります。

 

「感情」だけでも

「気持ち」だけでも

「心」はなめらかに動きません。

 

“自分”という人を動かすには

「感情」も「気持ち」も必要であり、

それらが安心して存在していられる

「心」という場所も必要です。

 

【自分も他人も動かす力は、気持ちと感情がしっかり結びついた心からの言動】

 

「(略)ひとを動かすのは

 結局のところ、心よ」

 

この文章の“ひと”ということばには

「自分」と「他人」、

両方の意味が含まれているような

気がします。

 

本来、自分以外の人、

つまり他人を動かすことは

できないものです。

 

けれどもし、

他人の行動に自分が

なにかしらの影響を

およぼせたのだとしたら、

 

それはきっと自分の言動が

口先だけでも

思考停止した頭からでもなく、

自分の「心」から生まれたもの

だったからではないでしょうか。

 

心とつながっていない言動は

自分も他人も動かすことはできません。

 

国のトップが

帝だろうが王さまだろうが

民主主義のリーダーだろうが、

 

国民がみたいのは

聴きたいのは感じたいのは

耳障りのいい言葉ではなく、

そこにいるリーダーの「心」であり、

 

その「心」に国民が動かされるからこそ

国というものが

国のリーダーというものが

民のために存在していられるのでは

ないでしょうか。